ウイズダムマネジメント
長谷川好宏とは、こんな人。
28年勤めたメーカーで、業界下位から競争優位に立ち、ナンバー1になるまで改善と改革をつづけた長谷川好宏。
現在コンサルタントとして活躍している基礎を築いた勤務時代の物語。

「改善の人、長谷川好宏物語」
(※この記事はインタビューに基づいて書かれたものです。)
長谷川は大学を卒業して安全弁メーカーに入社する。入社当初は経理部に配属され工場の原価計算を担当した。長谷川は以後28年間勤めるこの会社で次々と提案や改善案を出していくことになるが、初めて提案が採用されたのもこのときだった。

[金券制度で、目で見る管理]
経理部に所属していた長谷川は「予算統制システム(金券制度)」の導入を提案した。この提案の内容は次のようなものだった。新年度が始まると、切手に似せた金券をその年の予算額分だけ発行して、その金券を各部署に予算の割当て通りに配布する。各部門では、何か購入したいものが発生すると、購入額分の金券を伝票に貼って経理に廻す。経理は金券が貼ってあるものは処理をするが、金券がないものは支払いをしないのだ。この金券制度が採用されると反発する声も出たが、社員たちの「お金に対する意識」が変わるまでに時間はかからなかった。「予算はあくまで予算」というそれまでの考え方がなくなった。会社も予算どおりの経営を行えるようになり、予算立て・計画の重要性が高まった。

長谷川は経理の原価計算の仕事をしながら、提案や改善をつづけた。そのうちに経理と兼務で社長直属の企画スタッフとなり、会社の改善のための仕事も増えた。


[ゼロからのIT化]
昭和44年、長谷川はコンピューター(富士通ファコム)の導入を提案した。それまで会社にコンピューターは無かった。社長をはじめ、社員の多くがコンピューターの必要性を感じていなかった。コンピューターがどんなもので、何が出来るのか、世間一般に認知されていない時代だった。

長谷川は会社を説得して、2年後にコンピューター室を発足、初代室長となる。受注管理と給与計算をコンピューターで行うようにすると、社員たちは「こんなことができるのか!」と驚きつつ、コンピューターの利便性や必要性を認知するようになった。
つづいて長谷川は、製品の販売価格と製造コストの差額である「粗利益」を製品別、部門別、担当者別に計算するシステムを開発した。詳細な粗利益のデータを算出することによって、会社がどこで儲けているか、どこをテコ入れしないといけないかが一目瞭然となった。社員たちは、自分の仕事にどれだけの利益があるのか、それが分りだすと仕事への取組み姿勢が変わった。社員たちに採算意識が根付き、率先して無駄を取除くことや工夫することを始めた。


[スタイリッシュな型式]
製品の型式番号をはじめ、図面番号、部品コードを刷新した。それまでも番号はついていたが系統だって並んでいなかった。それぞれの番号を刷新したのはコンピューターで扱いやすいようにするためであったが、効果を生んだのが、お客さんから見ても分りやすい番号となったことだった。お客さんが製品の型式を見て、それがどんな製品であるかが判るようになったのだ。当時、長谷川が勤務する会社は国内の業界で3番手以下に位置していたが、型式を変えたことで会社と製品の評判は上がり、販売にも貢献した。特に国外のお客さんにはわかりやすい型式が好評になった。

コンピューター室長としても長谷川は様々な提案や改善を行った。コンピューター室ができて2年も経つと、会社にコンピューターが欠かせないようになっていた。5年目には新しい機種のコンピューター(富士通ファコム)を導入して、生産管理システム、受注内容をコンピューターが部品展開する生産計画・資材管理システムを稼動させた。これによって、材料や部品の手配漏れ、部品欠品のトラブルが完全に解消された。また、それまで注文が入るごとに部品設計をしていたが、設計の部品標準化が進み、設計部門の負担が軽減された。当時、設計部門にはドラフターが数十台も設置され作業が行われていたが、設計者がドラフターの前に座る時間が格段に短くなった。


[商学部卒から製造部門長となる]
長谷川はコンピューター室長として製造部門へコンピューターシステムを導入した実績があることや製造部門に様々な改善の提言をしていたこともあり、製造部門の責任者に抜擢された。商学部卒の経理出身者が製造部門の責任者になることは異例のことだった。

製造部門の責任者となった長谷川は、提案をする人から改革を実行する人となった。長谷川が最初に着手したのは工場のトイレだった。トイレのありようは人間の尊厳に関わると事で、仕事に誇りをもって真剣に取組んでもらうためには、明るく清潔なトイレが必要であると考えた。

製造部門での改革と改善は、「生産の合理化」と「品質保証体制の強化」、そして「無駄の排除」することに徹底した。それまで、工場の工程は、各持ち場を担当してい
コンサルティング中の長谷川(現在)
る職人の腕に任せているところが多かった。しかし、長谷川は工場の作業においても標準化が必要であると考えた。ある日、社員が自分で購入した外国製の高級な工具を長谷川の所にもってきて、「これを使うことを認めてほしい」と言ってきた。長谷川は彼の仕事への熱意を充分に感じたが、答えは「ノー」だった。誰が作業をしても、同じ時間で同じ品質のものを生産できる生産体制を目指していた。そのために、作業のやり方も工夫をしたし、工場のレイアウトも変え、必要な設備も会社を説得して導入してもらった。
生産している安全弁は重量が重いため現場は力仕事が多く、それまで男性主体の職場であったが、作業のやり方を工夫したことで女性も現場で作業ができるようになった。職人任せであった各工程に、パート社員でも出来る仕事が増えた。作業の標準化が進んだことで生産効率もあがり、生産能力に弾力がつき、余剰在庫を抱えずとも、次々くる注文にも対応できるようになった。


[競争優位に立つためには]
長谷川は工場の生産性をもっと上げたかった。さらに、営業部門や設計部門を含めて、会社全体として効率を上げることが必要であると強く感じていた。当時、会社は安全弁メーカーとして世界に市場を広げていたが、会社のポジションとしては国内でもまだ3番手以下、上位との差は大きかった。これを逆転して競争優位に立つには、「製品品質の向上と安定」、「スピード」そして「コストイニシアチブ(価格主導権)」が必須であると長谷川は考えていた。

長谷川は会社の本部と営業、設計、製造の各部門を結ぶ「全社オンラインシステム」の導入を提案した。これが採用されるまでには時間がかかった。既に導入しているコンピューターシステムと比較して、導入コスト、運用コストが莫大だったためである。長谷川は自分が考える「全社オンラインシステム」を導入するにはIBM社のシステム38というコンピューターが絶対必要だと考えていた。IBMの営業担当者にも協力してもらい経営陣を説得した。新しいシステムのメリットをアピールすることに加えて、導入や運用に掛かるコストを下げるための知恵も絞った。再三にわたって提案と説明を繰り返した後、やっと会社に了承をもらうことができた。 全社オンラインシステムは会社に絶大な効果をもたらした。事務の省力化とスピード化が進み、会社全体の動きが飛躍的に速まった。設計部門では、情報がデータベース化されたことで、仕様の決定がシステム化され、設計データの類似検索により、注文の度に設計する必要がなくなった。設計室に並んでいたドラフターも数台で事足りるようになった。部品の標準化が進むと、設計の負担も軽減されたし、安全弁は1品料理の注文生産でありながら、標準部品については、計画生産が出来るようになった。

これまで会社の所々で発生していた小さなミスや漏れも完全に解消された。それまで大まかだった生産計画は、詳細部品も含めた精度の高い計画となった。進捗状況もオンラインで管理できるようになり、部品の手配のタイミングや組立のための部品配膳が完璧となった。全社オンラインシステムは会社のあらゆる部門、あらゆる工程でスピードと正確性をもたらした。

システム導入が成功し、会社に効果をもたらしたことで、長谷川のところにIBMから事例発表の講演依頼が舞い込むようになった。個別案件ごとに仕様の異なるオーダー品を製造する工場で、コンピューターシステムを導入することは画期的だった。

会社の生産体制が強固に確立され、「品質・コスト・スピード」において、会社に革新が起こった。それまで3番手以下だった会社も国内ではトップ、国外でも業界で名の通る会社となった。長谷川の思惑どおりに市場での競争優位に立つことができたのだ。


[売るということ]
長谷川は出来上がったシステムに満足であった。他の会社でもこのシステムのノウハウを必要としているのではないかというニーズを感じた。それだけ自信のあるシステムだった。長谷川は会社に情報システム事業部を立ち上げる提案をした。システム構築のノウハウを活かしてシステムを販売するという提案だった。将来のIT化を予想すると、情報化事業も一つの事業の柱にすることができるのではないかと考えた。
その提案は採用され情報システム専門の新会社が設立された。長谷川はそこの責任者となった。営業の仕事をするのは初めてだった。長谷川は足が棒になるまで、約7ヶ月間、システムを売りに歩いた。しかし、販売するのは容易いことではなく、営業の難しさを覚えた。営業にもやり方があり、顧客の立場に立った提案が必要で、そのやり方を効果的にこなしていくことが大事であるとわかると、次々に売れるようになった。


[起業]
長谷川は50歳を機に独立し、経営コンサルティング会社「ウイズダムマネジメント」を設立した。コンサルティング会社と契約してコンサルティングのノウハウの使用権を取得し、これまでしてきた工場管理の仕事を基にコンサルタントとしての道を歩き始めた。

コンサルタントとしての長谷川は新規顧客を開拓する「ゼロからのスタート」だった。契約したコンサルタント会社が、当時(平成4年)の不況の最中に全国10万社の中小企業の実態調査を行うことになり、長谷川にも調査に参加しないかと声がかかった。従業員30名〜150名くらいの企業を対象とする調査で、長谷川は732社の社長宛にアンケート用紙を送付することとなった。そのうち回答を返信してきたのは23社だった。後日、長谷川は全国の調査結果をまとめたレポートを持参して、その23社を訪問した。それが営業活動の始まりだった。営業の仕事は初めてではなかった。そのうち3社からコンサルの仕事をもらうことができ、長谷川のコンサルティング活動が始まった。

独立して20年以上が経ち、長谷川はコンサルタントとして500社以上の会社に診断や支援を行ってきた。その内容は、経営戦略から営業強化、製品開発、生産管理、ISOなど多岐にわたる。企業において、「人」の問題は重要で、長谷川はエニアグラムやYGテストといった「人の性格」の分野でも専門家として活動している。
長谷川が初めてコンサルティングの仕事をもらった3社のうち1社とは、今も継続してコンサルティングをしていて、高収益企業に変貌してとても元気な会社だ。(終)
(インタビュアー/編集 ジエイ)

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