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ウイズダムマネジメント長谷川好宏の

尊敬する人

The Person I Respect


長谷川好宏が青年時代から今日まで、書物を通して人生に影響を受けた人と文章を紹介しています。私は能力も大切と考えますが、人として品性を大切にしています。

 安岡 正篤 氏
「 思 考 の 3 原 則 」
 私はいつも、機会がありますと前提としてお話をするのですが、我々、特に中国民族、日本民族など、東洋民族の先覚者に共通に行われております「思考の3原則」ともいうべきものがございます。
 ものを考えるに当たっての3つの原則−−その1つは、目先にとらわれないで、できるだけ長い目で観察するということであります。第2は、一面にとらわれないで、できるだけ多面的、できるならば全面的にも考察するということであります。第3が、枝葉末節にとらわれないで、できるだけ根本的に観察するということであります。
物事を、特に事業の問題、あるいはすべて困難な問題、そういう問題を目先で考える、一面的にとらえて観察する、あるいは枝葉末節をとらえて考えるというのと、少し長い目で見る、他面的・全面的に見る、あるいは根本的に見るということとでは非常に違ってきます。ことによると結論が反対にさえなるものであります。そして、もちろんそういうふうに長い目で、そして多面的・全面的・根本的に見るほうが真をとらえやすいということは申すまでもありません。時局の問題などは特にそうでありまして、できるだけ長い目で、できるだけ多面的に、できれば全面的かつ根本的に見なければ、決して正しい考察は成り立たんと信ずるのであります。  「運命を創る」 P.21-22 プレジデント社刊


安岡正篤氏は、東大在学中に東洋哲学を独学で修め、21才のとき「陽明学」を上梓し、陽明学者として有名。戦中・戦後を通して政・財界に東洋思想を教えた。
終戦の時、昭和天皇が読んだ詔書は安岡正篤氏が原稿を作成した。東武線(池袋発)の武蔵嵐山駅近くに安岡正篤記念館があり、ウイズダムマネジメントの長谷川好宏は平成14年に訪ね、詔書原稿の写しを読んで来ました。
日本の歴代総理は安岡正篤氏のもとで政ごとの教えを受けたと言われ、特に中曽根元首相は弟子と言われている。安岡正篤氏は明治31(1898)年大阪市で生まれ、大阪府立四条畷中学卒業である。昭和2年に農士学校を創立、東洋思想の研究 と人材の育成に従事し、気骨の人、在野の教育者であった。
昭和58(1983)年12月、85才で惜しまれて逝去した。農士学校(今の国立女性教育会館/埼玉県比企郡)跡地に記念館が建立されている。


 内村 鑑三 氏
「 教 育 の 目 的 」
 教育の目的は人を作るにある、そして人たるは学者たり、智者たり、成功者たる事でない、己に足りて他に求むるの必要なく、窮乏の内に在るも感謝満足の生涯を続け得る者である。 
 出典:「内村鑑三全集31」岩波書店刊 昭和4年3月10日『聖書之研究』344号

「ボーイス・ビー・アムビシヤス」 Boys be Ambitious
9月27日(火)午後2時半より内村鑑三先生は母校北海道大学中央講堂に於いて「ボーイス・ビー・アムビシヤス」の題下にて1時間半にわたる講演をせられ、 堂を満たして余りある全校2000の聴衆に向って先生独特の親しみある熱弁で類のない激励のお言葉を与えられ、この大多数の教授学生の会衆はあたかも水を打ちたる如く、 静粛そのもので咳1つするものもなく一同を深く 霊感させられ、非常の反響を喚起せられた。

 ただいま総長佐藤先生からご丁寧なご紹介の辞を戴きましたが、先生のお言葉の中に大切な言葉が1つ抜けている。 それは私は農学士内村鑑三であるとの事であって、私がここに立つのは懐かしい母校に帰って諸先生並に多くの後輩諸君と 顔を合わせるのであって、特別にありがたく思うしだいである。
 私はこの題を掲げましたが、私はウイリアム・エス・クラーク先生が50年前この校を去るに臨んで、島松の原頭に馬上一鞭あてて、 あとに従う学生一同に向って叫ばれた「ボーイス・ビー・アムビシヤス」という簡単な言葉をいかなる意義によって残されたか考えてみたい。
 この言葉は果たしてクラーク先生の創始の言であったかを調べたところ、これは決してそうではないと思う。しかしそれであるからと言って先生のオリジナリティを失わないのである。
 キリストの聖言でもそのすべてが決してキリストの独創の言葉ではなく、その多くはこれを古来の預言者の中に見出すことができるのであって、かくいうことは決してキリストから彼のオリジナルティを奪うことにならない。キリストの貴いゆえんは古い言葉の精神を自家薬籠中のものとなし、これに新しき生命を与えて発表した点にあるのである。厳密なる意味においてのオリジナルティということは古今あることではなく、日の下には新しき者あらざるなりである。
 「ボーイス・ビー・アムビシヤス」の精神は当時のニューイングランドの文献を調べて見れば既に各州に発表されてあったことは疑いのない事実であって、クラーク先生がこの言を発せられるに至った経路を考えるに、先生の生国すなわちニューイングランドにはこの精神が充ち満ちていて、その精神的環境の中からブライアント、トロー、エマースンの如き偉人を生み、また先生を生んだのである。
 そのニューイングランドのピューリタンの意気が先生を透してこの言葉となったのであって、この簡単な言葉の背後に全ニューイングランドあるを考える時に、これ実に意味深い言葉となるのである。札幌の今日あるを得たはクラーク先生を通してニューイングランドの気風が大いに貢献したところにあるを思うときに札幌は一層貴いものになる
 先づ、「ボーイ」とは何を指すのであるか、この言葉に意味を研究してみたい。普通ボーイと言えば25歳以下の青少年を指すのであるが、このところに言う「ボーイ」は決してこれに限らないと思う。「ボーイ」とは実に「アムビションを有する人」のことで、前述の希望に邁進している者は年は60を越えてもなお「ボーイ」である。20歳前後の人々のみを目指して先生が「ボーイ」と言われたのではないと思う。私自身は未だアムビジョンを持っているから自分が「ボーイ」であることを確信している。
 人が「ボーイ」であるか、「マン」であるか、「オールドマン」であるかはその人の心持によって、私は今年67歳、宮部先生は68歳、佐藤総長は我々よりはるかに上で72歳であると聞いているが、諸君から見れば老人の老人で、もう引退してもいい頃だと思うだろうが、我々自身は未だこれからする仕事のたくさんある「ボーイ」だと思っている。かく言うは何も私が旧い友達を弁護して彼らをこの学校に永く置いてやってくださいと諸君にお頼みする訳ではない。(大笑)
 次にアムビシヤスまたはアムビジョンについて考えてみたい。日本語に訳せばまぁ「野心」であろう。「野心」と言って太閣秀吉やナポレオンのような軍略的または政治的な野心を考えさせられるから、「大望」と言ったほうが良いと思うが、解りやすく申せば、将来自分が成し遂げてやろうとする仕事をしっかり決める精神を言うのである。
 それについて今思い出すのは、エマーソンの言葉に"Hitch your wheels the star”(汝の車を星につなげ)と言うのがあるが、これは「望みを高く抱け」と言う心をクラーク先生が「ボーイズ・ビー・アムビシヤス」と平易に言った事を詩的に言い表したのであって全く同精神に出でている。
 高いアムビションを持つのは低いアムビションを持つよりはるかに善き事である。ある人の言った如くに「失敗は罪ではない、目的の低いのが罪である」。高い目的を持つことが人生を最も有意義に用いるゆえんである。
 出典:「内村鑑三全集31」岩波書店刊    昭和3年1月10日『聖書之研究』330号内村鑑三講演

 賀川 豊彦 氏
「 人 間 建 築 」
愛が創造であると言うことのわからない人は、愛は受けることであると考えるかもしれない。しかし、そんな人は、自己以上の世界のわからぬ人である。
 自己が充足してきたとき、自己の芸術的衝動が動く。そして画布を塗り、石塊を刻み、建築物を立てる。それは自分のためであるが、その事が自覚されてくると、自分の使命として、生命をそれに投げ込む。なぜなら、それは自己の表現であるからである。しかし自己の表現は、自己そのものとは違う。それは客観の世界に残されたものである。芸術的衝動が更に一段高く動くと、それは音楽となり、舞踊となり、演劇となる。しかし更にもう一段高く動くと人間建築となるのである。即ち、「汝」の内に自己を表現せんとする母性愛となり、恋愛となり、教育となり、愛国心となり、愛階級心となるのである。
 この場合には、興ずることが芸術なのである。画布に油を塗ることを惜しむ者はよき絵を得ることができない。石塊に向っての労作を惜しむ者は、よき彫刻を得ることができない。
 人間建築の場合においても同様である。相手の人間の内に自己を表現せんとする場合には、惜しみなく自己の凡ての生命と労力を捧げねばならない。相手に要求してはならない。それは報酬の問題ではない。芸術と創作に報酬はない。創造それ自身が報酬である。愛それ自身が報酬である。そしてその結果は、人間殿堂の建築である。この原理を理解しないものは、愛に犠牲が要ることがわからない。
出典:「信望愛」賀川豊彦著 梧桐書院 昭和25年刊

 「一枚の着物の使徒」(貧民窟と私)
 私は一枚の着物の使徒であった。下駄は必ず14錢の書生下駄、家は新聞を壁に貼った家、20錢のポチの間違いで、木賃宿へ暴れ込んで行って、逆に切り殺されたという事件があった家、長く幽霊が出るといって借り手がなかったのを私が借りて入ったのだが、私は面白半分に、その男が死んだ畳の上で同じように寝るのであった。
 日曜日には朝5時から礼拝を始め、6時には辻で讃美歌を歌い、9時には日曜学校、午後は辻で説教、晩は礼拝を6畳の間でした。

いざ立たん
新聞紙の室よ
さようなら
私はこれから
14錢の下駄をはいて
神の国近きを
宣ベ伝えて来よう

というような詩を、私はその当時雑記帳に書きつけている。
最後に残った一枚の着物も、よく人が欲しがるので、脱いで与え、自分は人からもらった女の着物を着ていたこともある。貧民窟から出ることも別に多くなかったから、風呂屋に行って、赤裏を番台の人に見つけられるまでは、全く自分が女の着物を着ているということを忘れていた。
 しかし、私が来ているものを与えると、それに見込みを附けた濱田という西洋人相手のゴロツキ乞食―いつも英語しか使わぬ八字髯の立派な中学卒業生―が、 私の着ている赤シャツをくれとか、ズボンをくれとか、私の帯をくれとか、先方から指定してもらいたいと申し込むので、私は山上の垂訓の、「求むるものには与え、借らんとするものは退くる勿れ」というのを一々貫行して、二三度はその通り与えたが、もう最後の一枚のシャツになると冷える恐れもある。逃げ廻ると、私を掴まえて無理矢理に脱がせて、強盗のようにして奪って行くこともあった。この男は34回拘留になった男で、こんなにして私から奪ったものは、2週間着ていて、またすぐ脱いで質に入れて、飲むのであった。私は着物が薄くて厳冬には寒いので、二晩も三晩も寒くて寝られなかった。そんな晩はもって2錢持って、湯屋に行って温まるのであった。そして湯屋の貧民窟に置ける使用を違った方面から味わった。 こんなにして湯屋に温まりに来るのは私一人かと思えば、貧民窟の尻切れとんぼは、みなこの流儀をやっているのを見つけて、やはりこれは自分がその境遇に落ちて見ないと、人に同情が出来ぬものだと知って、それ以来寒い晩には特に貧しい人々に同情するようになった。(1920年12月)

「キリストの馬鹿」
 私はキリストのために馬鹿になった。* 私は必ずしもそれを誇りに思ってはいない。それは私に取っては余儀なくせられたことであった。
 私は私の生涯の最も善き時をイエスに対する恋で送った。
 私が今日まで何を恋したかを問われたならば、多分「女」と言う代わりに、キリストだと答えるであろう。
 私はキリストのために、恋すら十分にすることが出来なかった。
 私はキリストのために、我儘を言うことを捨てた。
 私は囚われた男である。笑ってくれ人よ、私を奮い人間、キリストの馬鹿と。
 私は古い古い頭の持主である。私は1900年前のイエスに囚われ、イエスに忠義だてをした哀れな奴隷である。それほど私は保守的な人間である。それほど私は馬鹿である。
 私は賢くなろうと思えばなれないこともなかった。しかし私は喜んで馬鹿になった。私は15の時に、イエス・キリストのほかに私の愛を他に移さないという誓いをたててから、私は今日までその忠義だてに生きて来た。
 私は愛の完成に生きる。私はイエスを恋したが故に、その恋に生きる。私はイエスに対して持つ愛をそんなに軽々しく他に移したくない。
 キリストの馬鹿!  キリストの馬鹿!
 私はキリストを愛するために馬鹿になった。発明もせず、発見もせず、学問もせず、芸術にも行かず、私は馬鹿の如くに単一なる道を歩く。
 99の羊のために行かずして、ただ1匹の羊のために歩く。

 *使徒パウロは、キリストのために愚者となるを恥じずと言った。それから来た言葉


賀川豊彦氏は、明治21(1888)年に神戸で生まれ、4歳にして両親と死別し、少年時代は徳島で勉強した。16歳のとき宣教師H・W・マヤス博士から洗礼を受け、キリスト教信者となる。明治38年上京し、明治学院神学部に入学。明治44年23歳で神戸で日本基督教会の伝道師となり、新川の貧民街に移り住んだ。貧民救済をしながらキリスト信仰を伝えた。新川での救貧活動から新しい社会事業の領域を開拓した。これが賀川の生協運動の発端である。日本の生活協同組合の組織原理を創造し、日本最大の生協「コープこうべ」につながっている。今日、賀川の理念は「一人は万人のために、万人は一人のために」という言葉となってコープの全店舗や施設に掲げられている。賀川豊彦氏は昭和35(1960)年72歳で召天された。アメリカや欧州では賀川はガンジーと並ぶ聖者として敬意を受けている。

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中小企業診断士 長谷川 好宏
ISOコンサルタント
元ISO審査機関の監査員
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